ハクソー・リッジと那覇基地航空祭の旅#5(前田高地#2)
2018年 6月15日更新
浦添ようどれを出て、前田高地の上を目指します。
断崖を1人しか通れない狭い急な階段で降りていきます。
降りて、すぐに現れるのが前田高地平和之碑です。
ここで戦った歩兵第32連隊第2大隊は山形から来た(北海道出身者も多い)部隊です。戦後の昭和54年(1979年)に戦友会により建立されました。第2大隊長の志村常雄大尉は帝国陸軍で最も若い大尉でした。
前田高地の戦いは高地の陥落後も多くの兵が複数の壕に残留し、その後、高地の北の方に脱出した兵士達は、ゲリラ戦を展開しようとしていましたが8月15日の終戦を迎え、しばらくしてから9月3日に武装解除を受けています。生存者の中には志村大隊長も含まれ、他の生存者とともに戦闘の様子を記録に残しています。
多くの部隊が玉砕(全滅)した中、複数の生存者が戦後も残ったので、第2大隊の戦闘状況や陥落後に壕内に潜んで生存した様子や、壕を脱出してアメリカ軍のトラックを奪取して北部に脱出しようとしていた、などの記録が残っています。
また、同じ連隊の第1大隊の大隊長、伊東孝一大尉は現在も生存していて、前田高地の隣の戦場、150高地の戦いの記録を残されています。
前田高地の戦いでは、他の部隊も含めて、日本軍兵士が推定3,000名以上の戦死者を出しました。戦没者のお名前が石版に刻まれています。
この場所に掲げられている看板の写真はハクソー・リッジの写真です。この写真は有名な写真で、崖の上に立っている人物は映画ハクソー・リッジの主人公として描かれているデズモンド・ドス本人だそうです。
ハクソー・リッジの崖も、現在で樹や草に覆われ、写真のような垂直な崖の様子を覗うことは出来ません。
実際に来てみると、映画ハクソー・リッジでロケ地になった、オーストラリア、シドニーの南西190㎞のニューサウスウェールズ州ゴールバーン市の崖は、垂直部分がオーバーだったかなと思います。
慰霊碑の横にも当時の壕が口を開けています。
戦後70年以上が経過し、壕の内部は崩落が進み、だいぶ埋まっています。さらなる落盤の可能性があるので、壕内には厳重に立入が禁止されています。
そして、この場所に来て気付いたのですが、ここから為朝岩(ワカリジー/Needle Rock)に簡単に行くことが出来ます。
ここから、先ほどの浦添霊園の敷地になっていますが、霊園の通路を通って先ほど訪れた為朝岩の入口に簡単に達することが出来ます。
このことが最初から知っていれば、霊園の管理事務所で擦った揉んだしなくても良かったことになります(^_^;)
再び前田高地の上に上がり、途中、崖を見るとほぼ垂直なのが判ります。
高地の上には城壁が少しだけ残っていたり、復元されている部分があります。
ここが戦場にならなかったら、城壁の大部分は残っていたはずです。
浦添市としては、浦添城址の復元整備事業を四期に分けて実施しており、第一期工事は前回の浦添ようどれの復元工事です。現在行っているのが第二期工事で、為朝岩の崩壊防止の保全工事と、上記の写真の城壁の復元工事が完了しており、今後はこの城壁に繋がる南側の城壁を整備していく計画です。
最終的には、高地の上を囲む城壁を復元したいところですが、北側の一部は霊園にするときに崖を取り崩してしまったようで、現状では復元するのが困難になっています。
自分の最初の計画では、為朝岩と前田高地の訪問時間は1時間か1時間半くらいに留め、12時過ぎには那覇基地航空祭に行こうと思っていました。
しかし実際に前田高地を訪れると戦跡の重みに圧倒されて、もっとじっくりと前田高地の戦跡を見学したくなりました。
正直言って、このときは航空祭はどうでもよくなり、前田高地での滞在時間を時間を大きく延長することにしました(^_^;)
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