沖縄シュガーローフへの旅#5(嘉数台)
                                          2018年 1月16日更新                                                                            

 今回、訪問したい戦跡はシュガーローフ&ハーフムーンの丘と、前田高地と嘉数台を周り、最後は家族のために国際通りで買物をなどをしようというプランで行動しました。

 宿泊したダイワロイネットホテル那覇おもろまちの朝食会場は最上階の18階にあるレストラン大地の恵みで、展望が売り物で散歩してきたシュガーローフの丘も見下ろすことが出来ます。

 

 朝食はビュフェスタイルですが味も良く、定番の朝食メニューの他にチャンプルーや海ブドウ、沖縄天ぷらなど沖縄料理もあり、自分で作る湯葉などがあって、なかなか美味しい。同じ朝食料金の他のホテルの朝食内容よりもワンランク上の料理でした。部屋も快適だったので、沖縄の定宿にしたい(^_^)

 

 宿泊客はインバウンド景気に沸く沖縄らしく、半分以上は外国人観光客に見えます。ほとんどがアジアからの観光客で、中国、台湾、韓国からのように見えます。
 自分は中国語は不勉強なので、中国人が中国本土からか、香港、台湾などから来た観光客だか識別することは出来ず(>_<)
 隣の席は韓国人ファミリーで、話を聞くとソウルはこの季節は寒いので沖縄は天国だそうで(^_^)


 レンタカーで那覇からバイパスである国道330号線を北へ約6㎞行くと嘉数台公園に到着します。

 

 沖縄の日本軍第32軍の防衛計画は、サイパン島などの島嶼防衛の経験から、アメリカ軍が上陸してから内陸の防衛陣地に引き込んで防衛戦闘を行うという方式に変更しました。
 それまでは水際の守備陣地で上陸してくるアメリカ軍を攻撃していましたが、アメリカ軍のとった強力な航空攻撃と戦艦を主体とした艦砲射撃で、守備側が壊滅に近い損害を受け、一定の損害を受けると、もはやこれまでとバンザイ突撃を行って玉砕してしまうというアメリカ軍にとって組しやすい戦法をとっていました。、

 ところがペリュリュー島、硫黄島の戦いからは日本軍は水際での防御は避けて、内陸に縦横に張り巡らせた洞窟陣地にによる防衛線に戦法を変更し、アメリカ軍にも大きな損害が出ました。

 1945年4月1日、アメリカ軍は沖縄本島中部の市に海岸、読谷(よみたん)から北谷(ちゃたん)にかけての海岸に上陸し、史上最大の上陸作戦アイスバーグ作戦が始まりました。上陸に先立って今までの経験から、日本軍の水際防御陣地に対して激しい航空攻撃の他に加え、戦艦10隻を中心とした大小艦艇による3時間にも渡る激しい艦砲射撃を行いました。
 しかし、上陸してみると日本軍の反撃はなきに等しく、一番困難な戦いになると想定した上陸作戦は成功しました。

 その後、沖縄本島中部と北部への侵攻を開始し、北部には日本軍の守備部隊はわずか1個大隊しか配備されていなかったので、順調に侵攻は進んできました。
 日本軍の中飛行場だったところも、ほぼ無血で占領し、整備して自軍の飛行場として使用するようになります。(ここが戦後、嘉手納基地になりました)
 アメリカ軍は日本陸軍第32軍の司令部のある首里(那覇市)を目指します。

 嘉数台地は標高90mのの台地で首里を守る第一防衛線の陣地でした。
 アメリカ軍は上陸後、無抵抗に近い進撃をしていましたが、ここに来て始めて激しい抵抗に遭いました。4月8日のことです。アメリカ軍は2日で攻略する計画でしたが、16日間も戦いが続いた激戦地となりました。

 この嘉数台地での戦いの後が、第二防衛線にあたる前田高地の戦いになります。

 今回は、青い丸で囲んだ嘉数台を訪れ、その後に赤い丸で囲んだ前田高地を訪れることにしました。

 

 
 激しい戦闘のあった嘉数台は宜野湾市の嘉数高台公園になっています。
 この公園は二つの顔があり、一つは沖縄戦の戦争遺跡として。もう一つはニュースで話題になっているアメリカ海兵隊の普天間基地を見渡す展望台になっていることです。

 


 駐車場から公園に入り、台の上に上がる階段の手前に「弾痕の壁」があります。嘉数台の近くの嘉数の集落にあった民家の壁が公園に移設され戦争モニュメントとして置かれています。

 

 丘の頂上には120段の階段を昇って行きます。

 階段の途中には日本軍の陣地壕の跡が残されいます。台地の中は縦横無尽に壕が掘られて頑強な陣地になっていました。 

 

 壕までの道はきれいに草が刈られていて、人の背の高さ位の穴が開けられています。
 壕はアメリカ軍が進撃してくる側の反対側に掘られているので、出入口は直接射撃を受けることがない陣地は、反斜面陣地と呼ばれています。この方式の陣地は特に沖縄戦では有効でした。

 

 壕の中を覗くと、当時の兵士がアメリカ軍の砲撃の合間を縫って壕の中から出て反撃する日本陸軍の兵士の姿が目に浮かびます。
 壕の内部は破損が進み、落盤が起きる可能性があるので厳重な立入禁止になっています。

 

 草むらの中を歩こうとしても、各所に「ハブに注意!」の看板が掲げられているので、草むらの中に入るのも躊躇してしまいます。
 ハブは冬のシーズンは活動期ではなく、かつ、ハブは夜行性なので遭遇する危険性はとても低いのですが、やはり内地の人間にとって、こんな看板を掲げられたら怖くて、うろつけません(^_^;)

 

 公園の階段を昇り、頂上に行くと地球儀型の展望台が現れます。

 

 この展望台に登ると、今、何かと話題の普天間基地を見ることが出来るので、有名になっている展望台です。

 

 騒ぎの原因になっているオスプレイが、大きなローターで存在感を強く主張している感じです。

 

 戦前には農地だった場所でしたが、戦争中は激戦地になり、戦後は多くの住民が基地周辺に住み、基地の周囲はすっかり市街地に囲まれています。また基地の敷地を返還した基地に隣接した土地に大学や小学校が建てられ、アメリカ軍機の墜落や部品落下で騒がしている基地です。
 移転先の反対運動がなければ、とっくに普天間基地は移転して、基地の軍用地は返還されているはずですが、なかなか世の中ままならないものです(^_^;)

 


 第一線の牧港から嘉数台、和宇慶を結ぶラインは、平坦な沖縄中部から南部に向かうと、嘉数台で最初に戦車が超えられない崖が立ち塞がります。
 嘉数台も、前田高地も日本軍はいい地形を選んで防衛拠点にしたと思います。アメリカ軍もここを陥とさないでは先に進むことが出来ず、激戦地となりました。

 嘉数台の戦いが始まってから10日目の4月19日はアメリカ軍の総攻撃があり、戦艦を始めとする艦船18隻、航空機約650機による攻撃は沖縄戦、どころか太平洋戦争を通じて最大の砲爆撃で使用された砲弾は、176万発にも及びました。しかし嘉数台は陥落せず、逆に日本軍の反撃により戦車も60台あまり破壊されるほどの大損害を受けました。
 
 台地の上には公園の展望台もありますが周辺には慰霊碑として「京都の塔」があり、京都府出身(福井県出身者も多かった)の兵士2,536名の犠牲者を慰霊しています。また朝鮮半島出身の軍人、軍属386名を慰霊する「青丘之塔」も設けられています。
 嘉数地区には住人700名がいましたが、うちこの半数が犠牲になられたとされています。

 

 トーチカが一つ残されています。トーチカはアメリカ軍が侵攻してくる正面方向を向いています。
 今では、草木に覆われていてトーチカからの視界はまったく開けていませんが、当時はアメリカ軍が上陸した海岸や、沖に浮かぶ艦船も良く見える場所でした。
 
 

 このトーチカに対して機関銃や戦車砲などの激しい攻撃が加えられてので、もともと四角だったトーチカの形は、銃撃、砲撃でかなり削られた形になっていて、戦闘の激しさが覗えます。

 

 

 厚さ75㎝もあるコンクリート製のトーチカが鉄筋がむき出しになるほど激しい銃撃、砲撃を受けた跡が残っています。

 

 後ろの出入口から、トーチカの中や銃眼からの見え方を見ることが出来ます。
 もちろん当時は出入口は壕に繋がっていて、外には露出することなく、壕内から出入りすることが出来ました。

 

 アメリカ軍の予想外の抵抗を示した日本軍は、最後には戦力を消耗し、4月24日になると日本軍の残存兵力は後方の第2線陣地の前田高地に、密かに撤退を開始しました。
 アメリカ軍は2日で攻略する予定でしたが、激戦の中、多くの犠牲を払いながら結局16日間もかかって第1線陣地の嘉数台の占領しました。
 この後は、第2線陣地の前田高地、そして首里の外郭陣地のシュガーローフの戦いに続いていきます。

 戦跡としての嘉数台公園は、都市化してしまったシュガーローフの丘やハーフムーンの丘が戦跡としての痕跡がなくなってしまったのに比べると、嘉数台は戦跡として良く整備されていました。
 戦跡と普天間基地を見渡すことが出来る嘉数台公園は、平和教育の場所として良く利用され続けるかと思います。



 雨が降り始めましたが、後方の第2戦陣地跡の前田高地に向かいます。
   

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