沖縄シュガーローフへの旅#1(序章)
                                          2017年12月 7日更新                                                                          
 2016年1月に沖縄旅行に行きました。沖縄は何度か旅行に行きましたが、今回は矢も盾もたまらず沖縄に行きました。
 きっかけは、この本を読んだからです。
 ジェームス・H.ハラス著 猿渡青児訳 
  「沖縄シュガーローフの戦い-米海兵隊地獄の7日間」

 

 2007年に光人社からハードカーバーで出版され、その後2度文庫化されています。(原書はアメリカで1994年に出版)

 

 作者のジェームス・ハラス氏は元海兵隊員へのインタビュー、部隊報告書、戦闘記録フィルムなどから丹念に7日間の記録をノンフィクションとして上梓しました。
 訳者の猿渡青児氏は会社員で、3年かけて通勤電車の車内で翻訳を行いました。プロの訳者ではないのですが、文章は読みやすく、軍事的な用語も正確に記されています。




 シュガーローフの戦いに注目したのは偶然でした。2012年にリオデジャネイロ・オリンピックが開催される前に、リオデジャネイロ市の紹介と周辺の名所の紹介がありました。
 その中で、海辺の2つの巨岩が目に入りました。一つは釣り鐘状の巨大な奇岩で、麓から2つの岩山を結ぶロープウェイが走っています。

 

 個人的には、岩山には大いに興味があり、釣り鐘状の奇岩の形がアメリカなどの砂糖菓子のシューがーローフに似ていることから、シュガーローフ・マウンテン(ポルトガル語でポン・ヂ・アスーカル)と呼ばれています。
 岩山好きとしては、英領ジブラルタルとシュガーローフ・マウンテンはいつかは訪れたい場所です。

 シュガーローフ・マウンテンを詳しく知ろうと、シュガーローフで検索してみると、沖縄戦のシュガーローフのことばかり出てきました。

 私は戦史に興味がありますが、第二次大戦における陸戦の興味はもっぱらヨーロッパ戦線で、太平洋戦線に関しては海戦史のみでした。
 太平洋戦線の陸戦は、ガダルカナル島攻防戦以降は、アメリカ軍の圧倒的な兵力と火力により、日本軍は敗退と玉砕を続けていたので、日本人としてはつらいものがありました。
 特に沖縄の戦いは、航空機による特攻作戦や、戦艦大和などの第二艦隊が菊水作戦で海上特攻に関しては、戦史を熱心に読んでいましたが、地上戦に関しては、映画「ひめゆりの塔」などに描かれた、沖縄の住民をも巻き込んだ悲惨な戦場の様子に、いけないことですが意識的に避けていました。

 自分の意識が変わってきたのは、硫黄島の戦いを描いたクリントイーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」を見手からです。映画館で見たときに、渡辺謙演じる栗林中将を始めとして、登場人物達を襲う過酷な運命を2時間に渡って共有するという体験をしました。
 このときから、日本を、家族を守るために戦った旧日本軍兵士。ガダルカナルの戦い以来、戦って苦しくなるとバンザイ突撃を行ってきた日本軍が、ペリュリュー島の戦い以降、陣地戦で粘り強く戦い、戦争末期まで何度かアメリカ軍に最終的には敗れてしまうが、互角以上の戦いをした歴史に興味を持つようになりました。


 
 「沖縄シュガーローフの戦い」の始まりは、第六海兵師団が日本軍との戦いですっかり消耗してしまった陸軍第二七師団から、戦線を引き継いだところから始まります。
 最初は安謝川を渡河した場所から始まりまります。

 1944年5月12日に高さ20mにも満たない変哲もない小さな丘を、最初は1個中隊1日で落とせると思っていたのが、ほぼ全滅。
 
 2日目に2個中隊で攻撃しても、撃退されて陥とせない。
 
 3日目は3個中隊を投入し大隊規模で攻撃すると、何とか丘の頂上は確保出来たが頂上の維持は困難に。夜になって1個中隊を増強するが膠着状態が続く。
 
 4日目になって、海兵隊は消耗した中隊の代わりに、新たな中隊を頂上に送るが、日本軍の攻撃の精度が上がり、ついに頂上から海兵隊の部隊は一掃される。
 
 5日目になると、海兵隊もようやくシュガーローフだけではなく、周りのハーフムーンや馬蹄型をした斜面の地形を持つホースシュー(日本軍の迫撃砲陣地があった)の3つの主要拠点が、互いに連携してアメリカ軍に反撃していることに気付きました。
 ついに1個連隊を投入する連隊規模の総攻撃を行いましたが、日本軍の首里方面からの援護射撃もあって、アメリカ軍は多数の死傷者を出して撃退されました。

 6日目
 今度はアメリカ軍は2個連隊を投入して攻撃を行うが、日本軍の反撃を受けて攻撃は成功しませんでした。
 しかし、補給、援軍や交替部隊の乏しい日本軍は、6日間の戦闘で消耗してきました。

 7日目
 消耗した日本軍に対しアメリカ軍は攻撃を開始し、ようやく丘の反対側の斜面に戦車による攻撃が成功し、遂に7日目にしてシュガーローフの一帯は陥落しました。
 この間のアメリカ軍は、11回の攻撃を行い、損害は死傷者2,662名、戦闘疲労患者1,289名。それに対し敗れた日本軍は記録がなく、死者行方不明者は数千名と言われています。

 




 沖縄戦跡巡りの旅の当初プランでは、タクシーで県立沖縄工業高校まで行き、安謝川の橋を渡り、今は天久台病院が建つ天久台(日本軍の防衛拠点でした)をまわり、それから東の方からシュガーローフこと安里52高地がある安里配水池公園まで、米軍の進撃ルートを歩いてたどり、市の給水タンクのあるシュガーローフに登る。その後、シュガーローフと対になって防衛拠点となった激戦地ハーフムーンも丘として地形の一部を残しているので、そこを訪れる予定でした。
 翌日は、日本陸軍第32軍司令部のあった首里城近辺と、シュガーローフの戦いの前にあった有名な激戦地になった前田高地と嘉数台周辺の地形を歩き回って確認するプランを立てていました。

 誤算は、1人旅で沖縄戦の戦跡巡りの旅だったのに、不幸にして家族旅行に昇格してしまったことです(^_^;)

 プランは大巾に変更になり、1泊2日で、沖縄が初めての子どもの為に海洋博公園の美ら海水族館に行くことになったのでそれで1日目は潰れます。2日目に那覇観光を絡めて、戦跡巡りを家族に気付かれないように紛れ込ませることにしました(^_^;)

 シュガーローフの戦いの舞台となった一帯は、那覇市おもろまち周辺は、戦後、米軍牧港住宅地区として基地の軍人・家族用の住宅地となり、緩やかな起伏があった地形も平らに削り取られて戦場跡は整備されました。1987年に全面返還となり都市計画により那覇新都心として大規模な再開発が行われました。現在は沖縄モノレールのおもろまち駅周辺には、大規模免税店のギャラリアや大型ショッピングセンターやオフィスビルやホテルなどが建てられ状況が一変しています。
 ただシュガーローフの丘は一部は切り取られていますが、頂上に沖縄市上下水道局の巨大な配水タンクが設けられ、安里配水池公園になっています。また、シュガーローフの丘と対になって相互に援護射撃を行ったハーフムーンの丘も、住宅地に生まれかわりましたが、当時の地形を一部を除き残されているので、地形の確認に訪れたいと思っていました。
 
 そこでシュガーローフの丘を朝食前の朝の散歩も兼ねて訪れるのに、都合のいいホテルに泊まることにしました。
 ゆいレールの「おもろまち駅」からシュガーローフの丘に行く途中に東横インがあります。シュガーローフの丘を削った場所に建てられています。
 1人で行くのだったら、ここでいいのですが家族旅行だったらそうもいかない(羽田から早朝の便に乗るとき家族で東横インに泊まったら、狭くて散々だった)ので、少し格上のホテルが東横インからシュガーローフの丘を挟んだところに、新しいホテルが出来ているので、そこを予約しました。
 
 泊まったのは、ダイワロイネットホテル那覇おもろまちです。18階建の那覇新都心センタービルの中にあり、新都心のシンボルのようなホテルです。
 このホテルの場所はシュガーローフの丘の脇で、海兵隊が進撃路とした「高地3」と「殺戮の平野部」という場所で、多くの戦死者が出たところです。
 もし、この世に幽霊が存在するならば、このホテルに出ずしてどこに出るというような立地に建てられています。結果的に、このホテルは泊まるのに快適なホテルでした。
 一緒に泊まった家族も幽霊の存在は信じていませんが、多くの人が戦死した沖縄有数の激戦地跡に建てられたホテルだと言っても愉快になる話ではないので、告げずに新しくて、いいホテルだとしか言いませんでした(^_^;)

 そもそも、この旅行の目的が沖縄戦の戦跡巡りだということも告げていませんでしたから・・・・・・
 

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