2016年ハワイ 戦艦ミズーリへの旅#8(戦艦ミズーリ#6)
                                           

 2021年 3月 2日更新         

 先任衛兵伍長(Master-at-Arms)の事務室

 先任衛兵伍長と言えば、海上自衛隊にも先任伍長という役職があります。海曹と海士のまとめ役ですが、アメリカ海軍の先任衛兵伍長は軍法を遵守させ、取り締まりを行う役職のようです。
 (艦上の海兵隊員も艦内の治安維持の役割を果たします)

 

 先任衛兵伍長の部屋にしては、かなり質素な部屋です部屋です。警察の施設のような雰囲気です。

 

 Command Master Chief
 こちらの方が、海上自衛隊の先任伍長に近い役職です。
 海上自衛隊の場合は、帝国海軍の制度を引き継いでいますが、アメリカ海軍のコマンドマスターチーフの制度も参考にしています。
 コマンドマスターチーフは、下士官というか准士官ですが、艦長や司令官に様々な報告をし、助言をする立場の役職でもあり、乗組員の士気、福祉、仕事の満足度、規律、利用、家族の支援、および入隊兵員の訓練に関する政策の策定、実施、実行に関する意見を提供しする重要な役職です。
 先ほどの先任衛兵伍長と写真を比べると、コマンドマスターチーフの方が、知性があり貫禄も有りそうに見えます。

 

 事務室もかなり立派な部屋です。

 

 下のデッキに通じる急なラッタル
 記念艦が一般公開しているのは、ホンの一部の区画だけで、この下は公開エリアではないので入れなくなっています。
 もし、すべての区画を一般公開したら、見学は1日では済まないし、なによりも艦内で迷子になって出られなくなる危険があります(^_^;)

 

 海兵隊員の居住区
 ヘルメットや背嚢やシェラフ、ガスマスクまで置かれています。

 

 同じく海兵隊員の居住区
 こちらは制服類が置かれています。下士官の制服が置かれているので下士官といえども、この狭い寝台で寝起きすることになります。

 

 居住区から出て、通路を進みます。

 

 工作室 Machine Shop
 案内板には「海上では機械の新しいパーツを手に入れるのは困難であった。ここで生産されたものは正に「Maide in USA」であった。」
 とあります。航海中に必要な補修パーツがあるときには、図面を参考に鉄材を削り出して製作します。

 



 工作室を過ぎると、また居住区になります。
 三段式の寝台がずっと広がります。 乗員1,600名以上の寝台があったそうです。
 寝台はいつでも寝られるように、枕と毛布がセットされていますが、寝台の寝台の一つ一つに「手を触れるな・立ち入るな」の掲示がされています。

 

 寝台の一角には壁が丸く湾曲して、寝台区画も湾曲している場所があります。
 ここは主砲の基部で、その周りにも寝台区画になっています。いかにも戦艦の艦内らしい光景です。

 



 居住区の右舷側に廻ると、また事務室になります。
 広報課事務室 Public Affairs Office
 艦内広報のテレビ KBMO-TVの製作と、艦内新聞の編集を行っていました。

 

 Panasonicのビデオカメラが置かれています。

 

 居住区のかなりの区画が展示室にされています。

 戦艦ミズーリの経歴から、第二次世界大戦が始まった真珠湾攻撃の展示。戦艦ミズーリの就役後は硫黄島の戦い、日本本土への艦砲射撃、そして沖縄の戦い。日本降伏後の9月2日のミズーリ艦上での降伏文書調印式。
 その後の朝鮮戦争、湾岸戦争の展示はさらりとあります。

 特に神風特別攻撃隊に関する展示には重きを置かれていて、
 戦艦大和がアメリカの空母機動部隊に撃沈された4日後の1945年4月11日14時、鹿児島沖縄海上にて、250kg爆弾を抱いた海軍鹿屋基地から飛び立った第五建武隊の19歳だった石野節雄二等兵曹(と現在では見なされている)の搭乗機が、ミズーリの右舷甲板に突入。
 機体は右翼がミズーリの第3副砲に激突。爆弾は爆発せず、搭載していた燃料で火災が発生したが、すぐに消し止められました。
 250kg爆弾が爆発しなかったのは不発だった説と、既に投下されていた説。もう一つは石野機は特攻機ではなく、護衛機か観測機であったが、自主的な判断でミズーリに突入したのと複数の説があります。

 

 火災の鎮火後、機体の残骸を乗員が片づけていると、特攻機の操縦士の上半身の遺体が発見されました。乗員はホースで遺体を流そうとしましたが、死亡した敵兵でも自らの任務を忠実に果たしただけと、ウィリアム・キャラハン艦長は水葬の命令を出しました。乗員は突入してきた敵兵の遺体に敬意を払うことに強く反発しましたが、従軍牧師は「死んだ敵はもはや敵ではない」と説得し、翌日、乗員の手づくりの日の丸に包まれて、日本軍操縦士の遺体はアメリカ海軍の様式に則って丁重に水葬に付されました。

 艦内の展示内容は、一方的に日本側を非難するのもではなく、公正な正確な展示がされている印象が残りました。 これは姉妹館提携協定が結ばれた広島県呉市の大和ミュージアムの尽力があったのかもしれません。



 法務官事務所 LAWYER'S OFFICE
 判例集などがずらりと書架に並んでいます。 

 

 また居住区が現れましたが、ここは准士官、准海尉の居室 Warrant Officer's country

 高度な技術を持つ年期の入ったベテランの居室です。
 
 
 
 ベテランの准士官は尉官クラスと同じの2名部屋と、佐官クラスのような個室も与えられ、アメリカ海軍に於いてのWarrant Officerの地位の高さが覗えます。

 

 ドアにリンゴのマークが大きく描かれたコンピューター・センター
 
 

 マークから当時のアメリカ海軍はMacintoshのパソコンを使用していたのかと思ったら、並んでいたのはCOMPAQのパソコンでした。
 COMPAQは1990年代には世界最大のPC/AT互換機メーカーでした。その後2000年の頃にはDELLにシェアを奪われ、2002年にHewlett-Packard社に吸収合併されてしましました。

 

 全部の主砲塔の基部です。

 

 ブリーフィング・ルーム

 

 歯科治療室
 長期航海が多かったアメリカ海軍には必要な設備です。

 

 合衆国郵便公社の郵便局もあります。
 Money oder(郵便為替)も扱うのかセキュリティが厳重です。

 

 軍艦の中の郵便局の営業時間は下記のようになっています。

 

 郵便局の中も良く再現されています。

 

 するとまた厨房が現れます。
 今までの大人数分の調理する厨房ばかりでしたが、ここは少人数に対応した厨房になっています。高級士官用でしょうか・・

 

 グリルの鉄板やフライヤーなどがあります。

 


 艦内に1日中いても飽きないのですが、まだまだ他に見学する施設もあるのと、飛行機の体験操縦も控えているので、2時間弱で退艦することにしました。

 艦内から外に出ると、ハワイの強い陽光に照らされます。
 真珠湾の出口方向を眺めます。1945年12月7日の日本軍の空襲下に、多くの艦艇が港外に出ようと目指した水道です。

 

 真珠湾の軍港にはアメリカ海軍のイージス駆逐艦が並びます。
 逆光になってしまった写真ですが、以前来たときにはスプルーアンス級やタイコンデロガ級イージス巡洋艦や強襲揚陸艦などが並んでいましたが、この日はものの見事に停泊している艦艇はアーレーバーク級ばかり。同一艦種ばかりだと、ちょっと面白みに欠けます。

 

 11時頃になると、多くの団体客が訪れ始め混雑してきました。同じフォード島にある真珠湾航空博物館(訪問当時はハワイ太平洋航空博物館)に向かうため艦を降ります。

 

 岸壁には対日戦勝利のシンボルとして、水兵と看護婦がキスしている像が置かれています。
 この「勝利のキス」は1945年8月14日(日本時間8月15日)に日本がポツダム宣言を受諾した知らせを受け、ニューヨーク市のタムズスクエアで面識のない水兵と歯科助手がキスをした場面が撮影され、その写真がライフ誌を飾り、それを元に製作された像です。
 ミズーリには第二次世界大戦終結しか関係のない像です。

 
 
 この後は、同じフォード島の中に真珠湾航空博物館(訪問当時の名称は真珠湾太平洋航空博物館)に巡回バスに乗って向かいます。
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