ハクソー・リッジと那覇基地航空祭の旅#2(為朝岩
                                        2018年 5月 7日更新                                                                                                                                            

那覇空港の12月のディスプレー



那覇基地航空祭は12月9日(土)10日(日)の2日間の開催。
当初の計画では2日間、基地祭を楽しみながら、沖縄観光と戦跡巡りをしようと考えていました。
 しかし10日(日)の午後から東京での会議が入ってしまい、日曜日の午前中の便で東京に戻ることになりました(^_^;)

 沖縄での移動は今回はレンタカーを使用せずに、公共交通機関を利用することにしました。
 まずはモノレールの駅でフリー乗車券の1日乗車券800円を購入しました。
 
 

 一見、磁気乗車券に見えますが、自動改札口のリーダーに二次元バーコードを当てて認識する乗車券です。(これは普通乗車券も同じ)
 券面は4カ国表示です。 

 この一日乗車券は、使用開始の時刻から24時間有効なので、翌日の10時出発の日本航空902便に乗るため空港に行くときまで使えます。
 特にモノレールの運賃は高いので、このフリー切符はお得に使えました。



 那覇基地正面ゲート最寄りの駅は一駅の赤嶺駅です。2両編成のモノレールの乗客の約半分は航空祭に行くようです。
 モノレールから正面ゲートが見えますが、9時半を過ぎていてもまだ開門していません。
 航空祭にしては異常な開門時間の遅さですが、1日目はナイトフライトもあるので、19時まで開場。2日目は16時までと他の基地に比べてあり得ない閉門時間になっているからです。
 門の前では着陸時に見かけた基地エイサー部が10時前の開門に備え、歓迎演舞を始めるために整列しています。

 

 赤嶺駅で約半数以上の乗客が航空祭に行くために下車しました。
 自分は航空祭の先に、前田高地(ハクソー・リッジ)に行きたいと思ったので、下車しませんでした。
 
 前田高地に行く前に美栄橋駅で降りて、バックを宿泊するJR九州ホテル ブラッサム那覇に預けました。

 

 国際通りを通って牧志駅から再びモノレールへ

 

 おもろまち駅付近では、前田高地の後の激戦地、シュガーローフの丘をモノレールから見ることが出来ます。
 丘の上には那覇市上下水道局の巨大な貯水タンクが載っています。

 

 ここで首里に向かう2編成のモノレールの車内を見て回ると、乗客の半分以上が観光客風。そしてその大半が外国人旅行客で、車内に大きなトランクを持ち込んでいるのが目立ちます。
 どこの国の人か会話している言葉で判断してみると、中国、台湾、韓国が大半で、少数派としてタイ人らしき人もいました。
 また、この列車には乗っていませんでしたが、修学旅行生の乗車も多いです。
 地元の人の話では、地元の人間のモノレールの利用率は低く、それは運賃の高さだそうです。地元の人間は自家用車やバスを使い、複数の場合には近距離でもタクシーを使った場合の方が安く、早いそうです。
 それでも第3セクターの中では珍しく、2016年度より経常利益が確保出来ていることは喜ばしく(補助金を活用して固定資産を圧縮し、減価償却費を減少しているようですが)、観光客による運賃収入が大きく伸びているのが収益に貢献しています。


 終点の首里駅に到着しました。

 

 ここで下車する観光客のほとんどは、首里城に観光に行くと思います。
 首里城には沖縄守備の第32軍の司令部があったところで戦跡にもなっていますが、ここでの実質的な戦闘は行われず、アメリカ軍が来る前に南部に撤退してしまったので、首里城は砲爆撃で破壊されてしまったので、国は沖縄の歴史と観光の象徴して首里城を復活させるべく整備を行い、沖縄観光の目玉になっています。

 

 終点ですが、延伸計画が進行中で首里駅の先にも車止めが置かれていますが、当初から延伸計画ありきでレールが延びています。

 


 首里駅からはタクシーで前田高地を目指します。
 首里駅から先には2019年度開通を目指して、モノレールの4.1㎞の延伸区間の工事区間が続きます。
 前田高地のある前田にも駅が出来るので、開通後には前田高地にも楽に行くことが出来るようになります。

 


 一般的には前田高地というより、浦添(うらそえ)公園または浦添城址として知られています。(ただ映画の影響で世界的にはHACKSAW RIDGEの名が広まっています)
 ここは琉球王朝の首里城の前の城であった浦添城址としての史跡と、前田高地としての沖縄戦の戦跡の2面性を持っています。

 ここには為朝岩という巨石があります。前田高地自体が石灰岩が隆起して出来た地形なので全体が石灰岩ですが、為朝岩は石灰岩が高地上に突端が露出していて、昔から地元の拝所として宗教儀式に使われていた場所です。
 沖縄戦では、高地上にポツンと突出しているこの岩は、アメリカ軍の砲爆撃や地上部隊が進撃する際の目標ともなり、何度も繰り返される日米の激戦を見続けた岩です。
 前回、沖縄の戦跡巡りをしたときに、この岩をひと目見たいと思っていましたが、レンタカーの車上からは見かけることが出来ず見逃していたので、今度は高地に登り、為朝岩と目の前で対面してみたいと思っていました。

 為朝岩に行くルートとしては、浦添市のホームページを見ると城址公園 浦添ようどれから高地に登り、尾根伝いで為朝岩に行こうと思っていました。

 しかし、調べてみると、尾根沿いのルートは崩れる恐れがあるというので閉鎖されていることが判りました。
 地図で調べてみると、為朝岩の下の斜面は戦後、民間に払い下げられて民間の霊園墓地になっているので、墓地の中を通って行くのが最短ルートらしいことがわかりました。
 
 そこでタクシーの運転手に浦添城址霊園までとお願いしましたが、少し離れたところに浦添市の公営墓地 浦添墓地公園があり、そこに連れて行こうとするので、民間の浦添城址霊園の方にと頼むと、運転手は知らなかったので無線で無線室に問い合わせてくれました。すると無線室からの回答があり、同時にタクシーのカーナビに目的地とルートが無線データーで送られてきて、この場所に着きました。 首里駅からは4.4㎞ほどでタクシー代は1,260円ほどでした。

 霊園に着きましたが、ゲートがあり様々な注意看板が多数立てられています。
 ここには前回も車で通って、車の中から景色を眺めてのですが、為朝岩には気付きませんでした。
 今回も、この場所から岩が顔を出しているのですがこのときには気付きませんでした。

 

 拡大してみると、岩が立っています。沖縄戦当時は砲爆撃で草木がなぎ払われていたので、遠くからもこの岩は目立つ岩だったと思います。

 

 民間の霊園なので遠慮しつつ、ゲートを潜って中に入ると、管理事務所の窓が開いて、墓地に用があって来たのかと誰何されます。
 墓参に来たのではなく、この山を登って岩のところまで行きたいと願うと、氏名と住所を口頭で求められ、目的を尋ねられます。
 中に入れないかなと思いましたが、通行許可をもらいました。 

 警戒厳重で、墓荒らしと思われたのかと思いましたが、どうやら同業者の墓石業者を警戒しているらしいです。

 

 沖縄はやたらと看板が多い場所だなという印象があります。観光案内の看板だけでなく、「軍用地 売ります 買います」という沖縄独特のものから、アメリカ軍の撤退を促す反基地の政治的な看板の他に、選挙関係の看板も多く、現役の首長も堂々と選挙違反の看板を多数掲げる地域特性があるところです。
 それにしても、霊園には注意看板がやたらと多いなと思いました。

 原因は利益率の非常に高い墓石の扱いを他の業者に入り込まれたくない。と思います。
 自分の地元の霊園でも、墓石業者の同業者に対する相互監視はかなり激しいものがあります。先日、自分の家の墓石を買ったので業者から裏話を聞きました。
 そういうものは密かに水面下で激しい争いがあるようですが、沖縄では表面化しているのがスゴイ。
 通りで自分が同業者で墓地の下見に来たと間違えられるのも仕方がないです(^_^;)
 最近読んだ新聞記事では、全国平均を大きく上回る大きな規模の墓石を使った沖縄の墓地は有名ですが、最近では沖縄も核家族化と所得の低下により、りっぱな墓石を買うのが減少していて、沖縄の墓石業者も苦労しているようです。

 

 霊園の中の道を進むと、148mの高さのある高地の崖の厳しさが良く判ります。
 攻撃するアメリカ陸軍も苦戦したのが判ります。

 

 振り返ると、宜野湾沖の東シナ海が広がっているのが見えます。周辺を見渡せるので、日本軍、アメリカ軍双方ともこの高地を重要視したのが良くわかります。

 

 大小、様々な墓地、墓石があるので墓石巡りもなかなか楽しいものです。
 子どもの頃は墓地なんて怖い場所だったのですが、大人になると墓地は安らぎを感じます(^_^;)

 

 霊園を登り詰めると、為朝岩の入口が現れます。
 ここから私有地から市有地にかわります。(前田の部落の拝所でしたが、現在は浦添市に寄贈されています)
 現在の為朝岩への入口はこの1ヶ所になっているので、ここまでの霊園の道は私有地とあれど通行権は認められるでしょう。
 (後刻、霊園の入口を通らなくても浦添城址の方から、ここに来られることが判りました)

 

 為朝岩への道を登り始めると途中、岩が姿を見せました。
 この岩を3年くらい見たい気持ちを抱いていたので、これだけでもドキドキします(^_^;)
 
 

 目の前に、ずっと見たかった岩が立っているのを見て、しばらく見とれていました(^_^;)

 

 為朝岩は地元の言葉で「ワカリジー」 源為朝伝説から「為朝岩」と言われるようになったのは大正時代から。
 アメリカ軍から「Needle Rock」と呼ばれたのは、その形から。

 

 近くで見ると、岩には草が生い茂り、台風による損壊を防ぐために2013年に行われた補修工事で全体に金網が被されています。

 

 裏側に回って見ました。日影側は草が茂っていないので岩の表面が良く見えます。多数開いている穴は、石灰岩が風化したというより、日米の銃弾や砲弾の破片で開けられた穴だと思います。
 さすがの為朝岩も艦砲射撃で天辺が崩れ、明治時代の写真とは少し形が変わっています。

 

 少し北側の高地の方に向かってみます。

 

 為朝岩の周辺は、きちんと整備されていないので、草木がなければ沖縄戦当時の地形が残っていると想像しています。

 

 日本軍の兵士の心情になったつもりで、岩の間を潜ったりしました。

 

 岩の向こう側には、霊園と宜野湾の街、そして東シナ海が広がっていました。
 出てきた墓所にある墓石はワカリジー(為朝岩)を模しているのでしょうか。それとも別の意味があるのか不明です。

 

 浦添城址の方に向かう道は、完全に草に覆われて通行止めになっています。崖の上を通る道なので危険だとか。

 個人的には、浦添城址公園を訪れた多くの人たちに、戦跡を抜きにして巨石であって、地元の人の信仰の場所になっていた為朝岩を訪れてほしいと思うので、役所にはこちらの道を安全に通行できるよう整備してほしいと希望します。

 

 しばらく沖縄戦のことを思い、慰霊の気持ちをもって為朝岩を眺めていました。

 

 いったん前田高地を降りて、浦添城址と戦跡が多くのこっているエリアに向かいます。
 霊園を退去する際には、霊園の管理事務所に謝意を示してきました。