制作記#298
                  更新日2013年9月17日更新           

2013年9月17日(火)(番外編)石巻市立 大川小学校                          
 9月11日と言えば、9.11。
 アメリカで同時多発テロ事件があった日です。
 それに日本ではあまり気にする人はいないけど、尖閣諸島の魚釣島を国有化した日。
 いろいろと節目の日ですが、何よりも3.11、東日本大震災が起こってから2年半を経過した日です。
 

 私の所属しているボランティア団体も、震災直後から募金、寄付金を募り、物資提供や瓦礫の片付けなどの労働力の提供などを行ってきましたが、震災後2年が経過し、ボランティアの方も、
 1.子どもたちの心のケア
 2.お年寄りたちの心のケア
 3.仮設住宅入居者の心のケア
 の方に、重点を置くようになってきました。

 ボランティア団体の担当として、その中のうち、子どもたちの心のケアの支援を行うことになりました。
 (被災地でスポーツ大会を行うことになっている)

 節目の日を迎えた9月の3連休、被災地に行きましたが、被災地の子どものことで一番、私が心を痛める場所があります。


 石巻市立 大川小学校。 

 大川小学校は二度ほど訪れました。
 一度目はボランティア団体で訪れ、ボランティアによる説明を受けました。
 二度目は被災地からの帰りにレンタカーで訪れました。

 大川小学校は胸が強く打たれる場所です。
 3月11日の大津波により、この小学校では死者、行方不明者を合わせて児童74名、教職員10名、合わせて84名の犠牲者が出た、慰霊の場所です。



 震災から大きく報道された大川小学校。
 石巻市立だったので、石巻市の市街地に近い場所だと思っていましたが、市街地よりも北東に約20㎞も離れた北上川の川べりにある小学校です。
 平成の大合併によって石巻市になった地域で、旧河北町です。



 学校の脇を流れる北上川は1934年(昭和9年)に完成した人工の放水路で新北上川とも呼ばれています。
 石巻に流れ込んでいて、度々水害を起こしていた旧北上川を90°ねじ曲げて追波湾に注ぐようにしました。

 3月11日に追波湾を襲った津波は北上川を約50㎞という信じられない距離を遡上しました。
 遡上した津波は堤防を乗り越え、川の両岸に甚大な被害を与えました。
 今でも破壊された堤防の補修工事が行われ、堤防を乗り越えた海水が水田にまだ残っています。


 大川小学校には北にある南三陸町から海沿いの国道398号線を南下して向かいました。
 この国道沿いも津波の傷跡が大きく、堤防がなくなった国道は恐ろしく海に近いところを走ります。
 被災した建物が点々とした無人地帯をしばらく走り、追波湾から北上川を4㎞ほど川上に向けて走ります。



 新北上大橋を渡ります。1年前は橋の一部が津波で流され、仮設の橋になっていましたが、現在では復旧しています。
 


 橋を渡りきると国道は大きく右側にカーブしますが、左側の低地に大川小学校はありました。
 この道は何度も走っていましたが、橋とカーブに気を取られて今までここに大川小学校があるのに気付きませんでした。



 大川小学校は堤防の内側と山に挟まれた低地にありました。



 行方不明者の捜索と瓦礫の撤去は優先的に行われたので、きれいな更地になっていいますが、震災前は多くの住宅があった土地です。 信じられないほど、何もありません。



 その土地に大川小学校の校舎だけが残されています。



 校舎を見ると、かなり凝った設計の校舎です。



 教室は中庭に向かって弓状に並んでいます。
 こんな素敵な校舎で学べるなんて子どもたちも楽しかっただろうな・・・

 PTAの関係で毎月のように小学校に出入りし、部活で他の小学校も何度も訪れているので、津波で大きな被害を受けた校舎を前にしても、子どもたちが元気で学校生活をしている光景が目に浮かんでしまいます。



 津波の破壊力はすさまじく、校舎の2階を繋ぐ通路は、鉄筋コンクリートの柱が折られています。



 体育館はすでに撤去されていますが、体育館の前には屋外ステージがあります。





 無事に卒業していたら楽しい学校の思い出を残せたんだろうなと・・・・

 屋外ステージに描かれた壁画、アメニモマケズ カゼニモマケズという宮沢賢治の詩と銀河鉄道、世界平和を祈る壁画は平成十三年度の卒業生によるものです。


 2011年3月11日14時52分、防災無線から津波が来るというので、15時10分過ぎ校庭に集まった児童達は教師に引率され6年生を先頭に避難場所として、新北上大橋のたもとの高台に移動を始めます。

 今でこそ、校庭のあった場所から橋や川の堤防が見えますが、当時は住宅が並び、橋のたもとまで3分かかるとされていました。
 当然、川の様子は見えず、堤防の内側の低い土地にいても、川幅の広い北上川の水が堤防を実際に乗り越えて襲ってくるとは、想定出来なかったと思います。  津波も河口から4㎞も上流にあるここまで達するとは、思っていなかったことでしょう。 実際には約50㎞津波は遡上し、広範囲で堤防を越えています。
 YouTubeに石巻市職員が撮影した石巻市立大川小学校の近くに押し寄せた津波の映像がありますが、これほどの大津波が来るとは想定出来ず、目指した避難場所に行っても助からなかったでしょう。



 前方から津波が襲ってくるので、後ろの山目指して避難します。 しかし、たどり着いた学校南側の斜面は雪混じりの急な斜面になっています。 大人でも登るのが困難な斜面です。 ここに追い込まれた犠牲者もいます。 ここには「鎮魂と復興を祈る 手合わせの桜」が植樹されています。



 生存者が助かったのは、先ほどの斜面よりも少し東で、斜面が少し緩やかになっており、古い墓が並んでいます。
 ここを教師1名と児童数名が10m以上登り助かったとの説明を受けました。


 84名の犠牲者が出た石巻市立大川小学校ですが、震災遺構として保存すべきか解体すべきか、まだ結論は出ていません。
 大川小学校は現在、飯野川第一小学校の内に置かれていますが、再興するにしても今の場所には、まず校舎を建築することはないと思います。

 石巻市が意見を募集したところ、8割は保存に賛成の意見が寄せられました。
 保存することにより、津波の悲劇を後世に伝えたい、犠牲になった子どものことを忘れたくない。反対意見として、建物を見るのがつらい、観光地化しているのが許せない等の感情もあります。


 同様に震災遺構として気仙沼市が保存を目指していた漁船 第十八共徳丸は7割の住人が解体を希望したこともあり、現在解体工事が行われています。





 教職員・児童84名が犠牲になった大川小学校跡地ですが、南三陸町の防災庁舎と並んで、被災地観光で多くの人が訪れています。



 天災では想定外のことが起こるということを後世に教え、未来の犠牲者が出ることがないように、大川小学校は無言で伝えている場所です。
 
 

 訪問にあたっては遺族の方には最大限の配慮をし、節度を持った行動が求められます。
 鉄筋コンクリートの建物は、津波により天井や壁に大きなダメージを受けており、崩落の危険性があるので、立入禁止である建物の中に立ち入ることは論外です。

 周辺では行方不明者の捜索が現在も継続しています。  体育館のあった場所の裏には、まだ子どもたちの上履きなどが落ちているなど、生々しい傷跡が残っている場所です。 小学校関係者だけでなく、周辺でも多くの人が犠牲になった場所です。

 犠牲者の魂が天国で安らかであるようにと、残された人たちの心の傷が癒やされますよう、お祈りいたします。



 製作記#1~100   101~150   151~200   201~250  251~300