2013年3月14日(木)(番外編)大船渡線 鹿折唐桑駅
JR東日本 大船渡線 鹿折唐桑駅 宮城県気仙沼市にあり気仙沼駅の隣の無人駅です。
ホームに立つと今にでも、ワンマン運転のキハ100形がやって来そうな情景です。
しかし、駅前広場を見ると、津波の被災地です。 駅舎は大きな被害を受け、取り壊されたので土台しか残っていません。
津波は駅前を襲い、線路を越えたところで止まりました。
震災当時は線路上に津波で流された自動車が並び、一部は駅の裏まで流れ込みました。
大船渡線の築堤が津波を最後に食い止めたようで、線路を挟んだ両側では被害の大きさが大きく違っています。
山側の道路沿いでは、もう平常の生活風景でしたが、海側は津波で家が流され、土台だけしか残っていません。
震災後3ヶ月後の駅前はまだ瓦礫に覆われていました。
多数打ち上げられていた船舶も、海に戻したり、解体したりして、今も残されている第18共徳丸の巨体は非常に目立ちます。
(2011年6月11日)
漁船は第18共徳丸です。330t巻き網漁船で福島県いわき市の会社の船ですが、震災当日は定期検査の為に気仙沼港を訪れていました。
海から内陸に500mも流された船は、鹿折唐桑駅の駅前の通りを塞いでいます。
船の周りの建物は全て解体され、瓦礫の撤去も終わりました。
第18共徳丸は船体が巨大すぎて海に戻せず、解体も検討されましたが、気仙沼市などから津波の被害を象徴するモニュメントとして残し、周辺を復興記念公園として整備する計画が出されました。
が
気仙沼市から陸前高田市に向かう気仙街道(県道210号線)沿いに鎮座しており、目立つ存在でもあり、通りを挟んだところに、仮設のセブンイレブンが営業しているので、多くの人が訪れる被災地視察の定番の場所になっています。
問題としては、被災地の住民感情として、いつまでも震災を思い出すようなものが残っているのは、精神的に非常に苦痛であると思う人が多いのと、「この船がオレの家を壊したんだ」という船に対する感情もあり、地域住民の思いとしては解体撤去のようです。
船の所有会社としては、市が保存をしたいのであれば市に提供するが、住民感情のことを考えると会社としては解体を急ぎたいとの意向を表明しています。
また鎮座している場所は、道路だけではなく5人の地権者がいる民有地であるので、地権者の同意も必要になっています。
もう一つの問題は保存費用で、船を保存するためには多額の補修費用と、復興公園の整備費が必要になります。
気仙沼市としては財政はいっぱいいっぱいなので、国費による整備を望んでいるようです。
住民感情も判るし、震災の記憶を留めるために、モニュメントを置きたいという行政の考え方も判ります。 今の世代は大震災の記憶を留めていますが、経験していない世代に語り継ぐのが困難なです。1896年(明治29年)の明治三陸地震、1933年(昭和8年)の昭和三陸地震の大津波の経験が今回は生かされずに、避難の遅れで大勢の犠牲者及び行方不明者が発生しました。
広島の原爆ドームも被爆者感情では取り壊しでしたが、永久保存を決め、その後世界遺産になり原子爆弾の悲惨さを世界に訴えかけています。
岩手県釜石市の釜石港に打ち上げられたアジアシンフォニー(M.V. Asia Symphony 4724tパナマ船籍)は震災から7ヶ月後の2011年10月20日にクレーン船で釣り上げられて、海に戻りました。 船の撤去後、漁港の整備が行われました。
このような撤去の道もあります。
いずれにしても、決めるのは気仙沼市です。
コンクリート製の建物と違って、鉄の船を保存するには手間と費用がとてもかかります。
鉄道の保存車両でも、吹きさらしの場所に置いておけば、急速に腐食して痛んできます。 屋内か屋根を架ければそれを低減出来ますが、船は巨大でそうすることは困難なので、毎年のようにペンキの塗り替えなどの保守作業が必要になります。
会社と気仙沼市との賃貸契約期限は、この3月までです。 今月中か、ここ1年くらいで、保存するか解体するかの結論が出るかと思います。
大船渡線は線の形が龍の形をしているので、ドラゴンレール大船渡線という愛称が付いています。
東北本線の一ノ関から気仙沼、陸前高田を経て大船渡までいく路線ですが、現在の所、一ノ関-気仙沼までの営業で、気仙沼-大船渡間は津波による被害の為に運休しています。
鹿折唐桑駅の現場を見ると、気仙沼-鹿折唐桑間2.2㎞は運転再開しても大丈夫そうです。
その先の上鹿折、陸前矢作の15.3㎞も山の中を通っており無事です。
そこから先3㎞の竹駒駅から先は駅舎も流され、築堤も盛り土も流される甚大な被害が生じています。
復興の為には陸前高田まで復旧させたいところですが、竹駒駅手前の気仙川に架かる鉄橋が津波によって崩落しています。
(2011年6月11日)
竹駒駅から先は普及計画により、線路の山側への移設ということが想定されているので、復旧されたとしても数年がかりでの復旧ということになります。
2013年3月2日から不通区間の気仙沼-盛間は仮復旧としてBRT(バス高速輸送システム)の運行が始まりました。被災地に行くとBRTの赤い車体は非常に目立ちます。
BRTは線路跡の専用線を走るバスですが、気仙沼-陸前高田周辺は専用線はなく、一般道を通ります。専用自動車道は大船渡近辺にわずかな1.9㎞の区間があるだけです。
被災地としてはBRTによる復旧は歓迎したいところですが、願いは鉄道による復旧です。 鉄路により日本全国と結ばれているのが復興への近道と、被災地の自治体の強い希望があります。
陸前高田の住民の人に聞くと、気仙沼-陸前高田間は道路が整備されていて、国道45号線の東浜街道、バイパスの唐桑道路の利用で、気仙沼や一ノ関に車で行くので、BRTには期待薄です。 しかし、高校生やお年寄りなどの交通弱者には、BRTの利用度は高くなるでしょう。
JR東日本としては、復興計画による建築制限がなければ、いつでも鉄路を再建出来る財政状態なっています。
しかし、鉄路を復活しても、収益よりも費用が大きく上回る路線の再建に踏み切る決断は出来ないと思います。
震災前でも大きな赤字路線だったので、復活させれば赤字額は震災前を大きく上回るのは確実なので、この機に廃線にしても、私企業であるJRを責めることは出来ません。
やるとしたら、国による多額の補助金の支給(BRTは補助金の支給あり)による鉄路の再建ですが、現状の利用者数をみるとBRTで充分という結論に達しそうです。
残念ながら鉄路の復活の声が高い地元自治体も、補助金や分担金を出す余力はないでしょうから、被災地の願いと、現実に大きなギャップがあります。
国鉄時代のチャレンジ20,000㎞をやっていたときに、鹿折唐桑駅の近くの宿に泊まったので、鹿折唐桑駅と駅前の情景の記憶がありますが、震災後の光景と違いが大きすぎて記憶が繋がりません。
列車が来なくなった鹿折唐桑駅ですが、ホームに立つと、ベンチや標識、ワンマン用のミラーなど現役で使っているようにきれいに整備されています。 うっかりとベンチに座って、列車の到着を待ちたいような錯覚にとらわれます。
唯一、営業している路線との違いは、レールの踏み面が錆びているくらいです。
数年間は列車がやってこないことが確実になったホームで、そんな感慨を抱きました。