2013年3月11日(月)(番外編)被災地 陸前高田市 定点観測
2011年3月11日の東日本大震災が発生してから2年が経過しました。
地震後に発生した大津波により、北は青森県から南は千葉県まで大きな被害が発生しました。
その中で岩手県陸前高田市は、死者1556人、行方不明者218人(2012年12月31日時点)と、全市の人口の7%以上を失いました。
市の中心市街地の高田町は、市役所や商店街も含めて、ほぼ全部が津波で失われています。
(2012年3月)
陸前高田市は岩手県南部の気仙川による扇状地に広がった街で、リアス式海岸においては貴重な平野のある街でした。
広田湾に面して、7万本の松のある高田松原は陸中海岸国立公園にも指定された、有名な景勝地になっていました。
しかし広田湾の奥にあるために、東日本大震災における津波被害は湾の地形により、津波の威力は倍加し、津波の高さは21m以上が観測されています。
陸前高田市を襲った大津波は、津波を想定した広田湾上の堤防を易々と乗り越え、高田松原の7万本の松を1本を残してなぎ倒し、市街地に襲いかかりました。海岸線から1.5㎞も離れた市役所も屋上を残して3階まで水没。 多くの犠牲者を出して津波は扇状地全体を襲いました。
私はボランティア団体で陸前高田市を何度も訪れ、1つの場所に支援の気持ちを寄せていました。
奇跡の一本松は有名ですが、私が気にかけたのは海岸線から3㎞ほど内陸に入った市立第一中学校周辺です。
市街地の平野部を襲った津波は、3㎞以上離れた第一中学校までやって来ました。オレンジのラインが津波が到達した範囲で、幸い避難場所に指定されていた第一中学校は高台にあったために、麓まで津波は達しましたが被害を受けずに避難所になり、自衛隊や救助隊の拠点になりました。
市街地の大部分が被災したために、無事だった第一中学校の教室や体育館は避難所になりました。
その後、2011年4月以降、校庭に仮設住宅が約200戸建てられ、被災者がそれらに移ったために学校は4月22日より、授業が再開しました。
第一中学校の校舎は2006年に新校舎になりました。行政との打ち合わせで校舎内に入れさせて頂きましたが、中に入ると外見と違って、ふんだんに木を使った内装に圧倒されました。 いい校舎だと思います。
しかし、校庭はぎっしりと仮設住宅が建ち並んでいるために、体育の授業や部活動でグランドを使うことが出来ません。
それに、学校は高台にあって、大津波で被災した市街地を一望できるので、家や血縁者や知人を亡くした生徒には辛いことだと思います。
(2011年10月)
校舎の後ろにも、日赤が使用していた救護所のプレハブが岩手県医師会による高田診療所に変わり、地域医療の拠点にもなっています。
(2011年10月)
グランドが使えない状態になっているので、中学校としては高田小学校の仮設グランドを借りて、体育の授業や部活動を行っていました。
しかし、移動に時間がかかるのと、複数の学校で共有して使用するので、自由に使えないのが非常に不便になっているというのが教諭の悩みだったそうです。
教諭の話では、2年以上グランドが使えないと高校受験の時間を考慮すると、ほとんどグランドでの体育や部活動を経験しない生徒が出てくるので、この状況の中での焦りは大きかったようです。
そこで、着目したのが第一中学校の真下の被災した場所です。
この場所から、市役所、陸前高田駅方面を望みますが、津波の巨大なパワーは、鉄筋コンクリートの建物を残して、市街地の建物は瓦礫に変えられていました。
被災後、3ヶ月目の状況ですが、津波で破壊された自動車の残骸が集められ、瓦礫やさまざまな生活用品だったものが散乱した状態になっています。
(2011年6月)
その4ヶ月後、この場所を仮設のグランドにしようという構想が本決まりになった頃、散乱していた瓦礫類はボランティアなどの力により片付けられ、被災した自動車の置き場になっていました。
(以下、2011年10月)
被災車両は整然と並べられ、搬入搬出通路も確保されていました。
津波は第一中学校の麓まで押し寄せたので、津波が襲った高さまで木が枯れているのが、はっきりと判ります。
被災者の方の話しによると、津波から逃げてきて、この崖を登れたか登れなかったかで生死が分かれたそうです。かなり急な斜面になっていますが、腕力で木の幹を手がかりに登ったそうです。
廃車体置き場に入ると、単純にスクラップと言うのが憚られるほど、津波による被害が胸を痛めます。
津波により多数の消防車が被災しました。 廃車体置き場は全体的に白黒の色と車体の錆色が目に入りますが、消防車の朱色はその中で非常に目立ちます。
震災当時、消防関係者は懸命の努力で避難を呼びかけ、堤防を閉鎖し、津波の後は救助に当たりました。
陸前高田市では消防官が1名、ボランティア消防士である消防団員に51名の犠牲者が出ています。
そんな被害の大きさを無言で伝える中で、大きな蜘蛛が巣を張っていました。
たとえ捕食生物の蜘蛛でも生き物がいるとホッとします。
ただ、廃車体置き場に生活用品が置かれていると、胸を打ちます。
半年以上も持ち主不明のランドセルが放置されています。 持ち主が無事であることを祈ります。
そんな中、廃車置き場の真ん中に稲が一株、豊かに実をつけて頭を垂れています。
この土地は、酒造会社の酒造施設があった場所です。 酒米が発芽して育った稲かと思いたくなります。
破壊され尽くした土地に、けなげに育った稲を、作業員もボランティアの誰も抜こうとは思わず、通路の真ん中で残され、籾をつけるまで成長したのだと思いたいです。
この場所を学校の仮設グランドにしようという構想が立ちました。
この土地を仮設グランドにするためには2つの課題がありました。
1つは、この廃車体を撤去しないと、整地が出来ないそうです。
廃車体の処理は国が復興予算で行うそうですが、廃車体を処理する場所までの運搬手段がないので、とりあえず市が仮置き場としていました。
もう一つは、この場所は酒造会社 酔仙酒造株式会社の所有地です。
津波で更地になったからといって、土地の所有権は変わりません。
3月11日の大津波では、酔仙酒造の敷地まで津波は達し、全壊しました。
酒造施設が壊滅したからといって、酔仙酒造は廃業するような会社ではありません。 工場を再建し、事業継続を選択した強い意志を持った会社です。
でも、この場所にはまだ新工場の建設は始められません。 ここは再び津波が襲えば再度甚大な被害が生じる危険があります。 震災復興計画により被災市街地復興推進地域に指定されているので、本格的な建築を行うことは、まだ、かないません。
2011年に酔仙酒造は、県内の同業者の事業所を借りて事業を再開し、製品を出荷しました。 2012年には大船渡市に新工場を新築し、製品の製造と出荷が始まりました。
しかし、酔仙酒造としては、この地での酒造再開を強く希望しているので、3年後には返還してほしいとのことでした。
3年という期限があっても、生徒達のことを思うと一刻も早く整備したいのが教育関係者です。
期限はあっても、校庭に作られた仮設住宅は3年後には撤去されているはず(本来ならば震災後2年以内に撤去ですが)なので、仮設のグランドも必要なくなるはずです。
仮設グランドを作る計画は、市と土地の所有者との折衝は難航しましたが、なんとか合意に至り仮設グランドを作ることになりました。
仮設グランドを作る土地は 約22,000㎡(約6,666坪)あり、従来からある第一中学校のグランドが約14,000㎡なので15,000㎡(4,500坪)くらいのグランドを整備する計画が立ち上がりました。
市が想定している予算(復興予算による国費)は3,000万円(うち500万円は設計費なので工事費は2,500円)と聞きました。
6月に設計の入札を行い6月中旬に設計開始 8月に着工、11月頃に完成の予定。
そして11月に陸前高田市を訪れてみると、完成していました。 仮設グランドが。
いつでも、撤去出来るようにフェンスは足場パイプにネットですが、きちんと整地されたグランドです。
野球、サッカー、テニスが出来るグランドです。
一周200mの走路もあります。 充分に運動会も出来る広さのグランドです。
グランドの隣接した場所には、地権者と思われる、仮設店舗が営業していました。
このグランドの近くには、復興商店街の栃ヶ沢ベースがあり酔仙酒造の商品も購入できます。
仮設グランドも、来年(2014年)の3月には撤去して、地権者に返還することになりますが、そうは予定通りに進まないと思います。
現状のままでは、新工場は作れないでしょう。
前述したように、陸前高田市は大津波により、堤防を破壊された上に地盤沈下が起きています。 再び、大津波に襲われれば、再び大きな犠牲と破壊が発生します。 確率的には、同じような大津波は当分は起きないと思いますが、震災後は想定外という言葉は封じられているので、やはり同じ規模の大津波が発生することを想定しなければなりません。
陸前高田市の復興計画によれば、全体的に市街地を山側に移していきますが、津波に覆われた平野部は8~9mの高さで、かさ上げ(盛り土)をする計画を立てています。
かさ上げの高さは、ちょうど電柱の電線の高さと同じくらいだそうです。
とてつもなく大がかりなかさ上げの工事の計画が立てられています。 巨額の費用がかかりますが、これも全て国の復興予算でまかなわれるそうです。
この盛り土が終了しなければ、陸前高田の中心市街地 高田地区の復興は始まりません。
まだここから見える建物は、まだ解体されていない津波で破壊された建物ばかりです。
2年が経過して、瓦礫は分別して積み上げられました。 瓦礫の処理は現地に作られたプラントや、多くの被災地以外の市町村の引き受けがありました。(ただ、瓦礫に放射能が含まれていると誤解して、引き受けないところもありますが)
瓦礫の処理が終われば、かさ上げを行い、その後に区画整理が行われますが、この区画整理にも難題が待ち構えています。
地権者の多くが犠牲になっているために、相続人を探して同意を得なければならないので、陸前高田市の場合は難航しそうです。
それでも、少しずつ復興へと歩んでいます。
我々も、少しずつ手助けを続けていきたいと思います。