レイアウト制作記#214
              更新日2011年7月13日更新         

2011年6月11日(土) (番外編)被災地訪問#5 (大槌町)                                              Otsuchi-town 


 最後に訪れたのは被災地は大槌町です。
 ここは特に津波の被害が大きかったところで、町役場も被災し、役場前に張ったテントで幹部が対策会議中に津波に襲われ、課長以上町長以下34名が死亡又は行方不明になりました。 犠牲者は町の職員の4分の1にあたります。
 町の指揮命令系統ごと流されてしまったので、岩手県も事態の把握が遅れ、救助や救援の初動が遅くなってしまい、一時期孤立したところです。 



 大槌町に行く途中、JR山田線近くの釜石市両石町の被災地を通りました。
 ここは両石湾の奥に街があり、津波対策のスーパー堤防がありました。



 堂々たる太平洋の壁を津波は容易に越えてしまい、両石町に大きな被害を生じさせました。



 堤防の内側の河口付近は瓦礫の集積場になっていて、トラックが何台も行き来して瓦礫の運搬にあたっていました。

 その中の1台、キャタピラの付いたダンプカーは日立建機のゴムクローラキャリアです。



 TOMMYのトミカのNo.18にもあるゴムクローラキャリアは、このような不整耕地で機動力を発揮しています。
 
 昇り降りの斜路が付けられた川を難なく渡っていきました。



 住居区域にある堤防も破壊されています。



 傍らのパワーショベルと比べると堤防の高さが判るかと思いますが、堤防は破壊されています。




 堤防を破壊した津波のパワーは鉄骨造の建物を骨組みだけにしてしまいました。



 まだ両石地区の解体と瓦礫の撤去は手つかずのようでした。



 解体、瓦礫撤去可の赤い旗が目立ちます。



 この地区を通ったときは、3ヶ月前に丁度地震が発生した14時46分頃でした。

 サイレンに合わせて黙祷する人々多数おりました。

 その中で、印象に残ったのは1つの家族で、父親と幼い子ども2人、そして祖父が1人の4人家族が線香と花束を手向けて黙祷していました。
 家族構成の中で、いるだろうと思われる母親の姿が見えません。 祖母もいたかもしれません。
 家族を失った4人家族のために祈りました。 今でもあの4人家族のことは、心に焼き付いています。




 三陸で高さのある集合住宅といえば雇用促進住宅で、これは雇用促進住宅片岸宿舎です。 ここも4階以下は津波の被害が甚大です。



 国道45号線の坂道を下って大槌町の中心部に向かいました。
 このあたりが津波被害の境界線で、何気ない東北の町の風景から、瓦礫の風景に変わっていきました。



 ここ大槌町にも陸に上がって有名になった船がありました。 釜石市の双胴観光船の「はまゆり」は震災があったときは定期検査中で、町内の造船所に入っていたのが津波で流され2階建ての民宿の屋根の上に載ってしましました。
 気仙沼市や釜石市と同じく、陸に上がった船を震災のモニュメントにという話がありましたが、二次被害(落下)と維持費、そして復興の妨げになるので撤去、解体がきまり、訪れたときには解体されていました。



 木造の家屋のほとんどが破壊されたので、大量の瓦礫が発生しました。
 


 被災した町の中で大きく目立つのは大槌小学校です。
 津波で4階まで破壊された上に、震災後の火災で半焼しています。



 ここ大槌小学校に町役場の仮庁舎が置かれ、復興にあたっています。




 大槌小学校を過ぎると、JR山田線の大槌駅前の商店街。



 ここは丈夫な躯体の建物は残っていますが、津波と火災でかなりの被害です。





 木造の家屋は津波で流され、瓦礫とかして更地になっています。





 大槌町役場です。  生存者の話だと役場の2階の天井まで津波が達し、助かったのは対策本部のメンバーのうち2階から鉄梯子を昇り屋上に避難できた人です。



 まさか役場の2階の高さを超える津波が来るとは想像だにしていなかったでしょう。


 役場の前を過ぎて、漁港と魚市場方面に向かいました。

 この先をJR山田線の大槌川橋梁が横断していたはずですが、ガーターどころか橋脚も見えません。




 大槌港に向かうのには堤防を越えていきます。



 高さ6.4mの堤防です。当日の津波の予想は6mだったそうで、多くの人がこの高さを誇る堤防により、津波から町は守られると思っていたそうです。



 堤防の外側のあった水産物加工工場などは、跡形もなく破壊されていました。







 大槌魚市場周辺の岸壁の瓦礫は片づけられていました。
 魚市場の建物前に停泊している漁船は稼働していました。 その他に水産調査船も出入りしていました。



 漁港の岸壁は片づけられましたが、水産物を保管する倉庫も、加工する工場もなくなっています。



 

 晴れ渡った空の下、海は見とれるほど美しく見えました。
 しかし、大勢の人の命を奪い、まだ多くの行方不明者が眠っている海です。



 ふと水中を見ると、おびただしい数の稚魚が群れて泳いでいました。  津波で、海中の栄養が良くなったかもしれませんが、これほどの数の稚魚は見たことがありません。 鰯の稚魚でしょうか。

 海は生命を産み、生命は海に還る  と、いう言葉を思い出しました。

 
 


 このエリアにも、かなりの数の作業場と商店、住宅があったはずですが、瓦礫の山になってしまいました。
 行方不明者の捜索が完了しないとm重機を入れての、瓦礫の撤去は行えないのでしょう。



 まだ、ここのエリアでは自衛隊と警察による行方不明者の捜索が行われていました。
 この日、捜索、警備を行っていたのは埼玉県警でした。



 JR山田線の大槌川橋梁に繋がる橋台と築堤の斜面で、機動隊員が行方不明者の捜索を行っています。



 大槌川橋梁のコンクリート製の橋脚が津波で、根本から倒されていました。



 国道45号線を走ると、JR山田線が平行して走っていました。

 ここはデッキガーターは流されずに残っていましたが、築堤は津波が乗り越えた際に、土が流されています。



 海に近い場所は、デッキガーターも橋台に通じる築堤も流されてしまっています。



 元JR保線マン氏によれば、築堤が流されたのはさほど難しくなく復旧可能ですが(過去に台風や大雨でJRは何度も築堤を流されている)、流された橋の復旧は時間がかかるそうです。
 JR東日本は、被災した7路線を復旧させるのには1,000億円程度見込んでいますが、復興計画で津波被害が受けにくい高台に路線や駅の移転が求められると、さらに資金と期間がかかりそうで、数年単位(常磐線は数十年単位)の復興になりそうです。 



 今回、各被災地を訪問して感じたのは瓦礫の撤去が以外と早く進み、復旧が行われているように感じました。重機も多数投入されていました。

 陸前高田市のところで、国道45号線の橋が流され、10㎞も(大型車だと40㎞以上も)上流の橋まで迂回せざる終えませんでしたが、震災後4ヶ月目の7月10日に仮設橋が完成し、迂回の必要がなくなりました。
 本来ならば、仮設橋は9月に完成する予定でしたが、作業時間の延長、休日の返上等で工期を2ヶ月も短縮して完成したそうです。
 復興を目指す、現場の頑張りようは世界に誇れます。

 瓦礫も東北3県の総瓦礫推定量2,183万トンのうち、7月現在で763万トン、約34%が処理済みになっており、全体の瓦礫の量からすると世界的には早い方だと思います。


 先例として、スマトラ沖地震で大津波に襲われた場所が、10年経過して新しく生まれ変わったのをみると、被災地も時間はかかりますが、よりよい街に生まれ変わることでしょう。
 それには早く政府に復興計画を策定して、それを推進してほしいのですが、それが時間がかかりそうなのが日本の不幸なところです。 
 
 

 自分たちが出来る範囲で今、助けたい人がいるなら助けたい。英米からの献金を有効に使って、復興が起動に乗るまでの繋ぎとなりたいです。




 最後の訪問地として、遠野市を予定していました。
 遠野市は被災はしていませんが、ボランティアの拠点基地になっていると聞きました。 遠野市は本日訪れた気仙沼市、陸前高田市、大船渡市、釜石市、大槌町のいずれも出撃行動範囲内にあり、被災地でない遠野市にボランティアが宿泊すれば、被災地に泊まった場合、インフラやロジに負担をかけない利点もあるそうです。


 そこでボランティアの宿泊地となっている「ボランティア遠野拠点」を訪問し、情報交換や進出しているボランティア団体とコネクションを取り付ける予定でした。しかし時間が17時をまわり今朝、出発してから12時間以上経過していて、強行軍で視察したのでメンバーの疲労が蓄積しているようなので、「ボランティア遠野拠点」を訪問するのは次回とすることにしました・・・・



 被災した街を4カ所も廻ってきたので、土曜日でも観光客の姿も見えない静かな遠野市の街並みを見ると、なんか気が抜けてしまって、遠野市で撮った写真は、橋のたもとに座るクロネコの写真が一枚だけでした。
 本当に今まで被災地にいたのが不思議なくらいに遠野は落ち着いていました。

 この橋(大手橋)にある新里とうふ店の「立ち喰い寄せ豆腐 1杯150円」の貼り紙に釣られて、大豆の味が濃い豆腐を食べました。
 150円でスチロール製の丼いっぱいの豆腐をおかわりも頂戴した上に、豆乳まで飲ませてくれ、話し好きな東北の人らしい歓待を受けました。

 
 帰る前に、メンバーの中の温泉の達人ご推奨の温泉 花巻温泉郷の中の鉛温泉 藤三旅館に日帰り入浴(700円)をしてから帰りました。



 由緒ある湯治場で、昭和16年に建てられた「千と千尋の神隠し」の湯屋のような(アニメはまだ見ていませんが)3階建ての旅館で、旅館部と自炊部に分かれた湯治の宿です。
 館内に5つある温泉風呂のうち、一番特徴があるのが白猿の湯で、地下に降りると4階分の高さの吹き抜けに、湯船は天然の岩が底にある深さ1.25mの立ち湯です。  旅館の廊下から簡単に覗ける構造なので、覗きや写真撮影に対する警戒が厳しいので写真は撮りませんでしたが、なかなかインパクトのある温泉でした。
 旅館全体が昭和レトロという感じで、特に売店は昭和40年代ではないかとクラクラする感じがいいです。


 以上、駆け足で被災地訪問を行いましたが、1日だけの訪問だったので記述に不正確なところがあるかもしれません。
 被災地支援に関しては、資金提供を受けた英米向けに英文の企画書を出してお伺いを立てているところです。
 
 最後に、被災地のいち早い復興と、被災者の方の心に平安が訪れますようにお祈り致します。


 

 次回からは、本来のレイアウト制作に戻ります。              

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