2011年6月11日(土) (番外編)被災地訪問#1 (気仙沼市) Kesennuma-city
今回はレイアウト制作に関係のない東日本大震災の被災地のことです。 記録として留めます。
2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災から3ヶ月以上経過しました。
地震の揺れによる被害の上に、その後発生した大津波により、より大きな被害が発生しました。
被害情況は映像などを通じて世界に発信され、日本、アジアはもとより世界中の人びとから、日本並びに日本人に対する愛情と励まし、そして多くの義援金が寄せられましたことに感謝を申し上げます。
私も参加しているボランティアグループも震災直後から義援金を募って送り、物資の運搬、ボランティアの派遣を行っています。
そんな中、アメリカの団体から数千万円、イギリスの団体から数千万円の寄付金が寄せられました。
義援金として日本赤十字に寄付しても、現在被災者に対して15%程度の給付しかないので、義援金としてではなく、被災地に近いんだから、このお金で何か被災者のために支援活動を行え、という要望がありました。
そこで、どのようなニーズがあるか。どのようなことが出来るのか。 どこに対して支援するのか。 協力していただける団体はあるか。3年程度継続可能か。
などを探る必要があり、一度被災地を訪れて現状を目で見て状況を把握し、企画作成のためのコンセンサスを得たほうがよい、ということで被災地訪問に出掛けました。
これから被災地の様子を報告いたしますが、被災地がより早く復興されることをお祈り致します。
震災直後は、救援物資を運搬する人や、ボランティアで被災地に赴く人たちを送る立場でした。
当時は、余震が続き、現地は停電・断水が続き、水も食料もガソリンも現地では調達出来ない中、悲壮感を持って救援に行く人たちを送ってきました。
現在では自衛隊、警察、消防、その他行政を始めとする組織、そして地域の人々、そして復興作業を行う多くの業者とボランティアの力により被災地の状況も少しずつ落ち着きはじめています。
そんな中、ボランティアチームは被災地に向かいました。 奇しくも大震災発生から3ヶ月目の6月11日(土)でした。 たまたまメンバーの仕事のない日が節目の日となりました。
ただメンバーの都合が付くのが1日だけなので、朝5時集合で日帰りの強行軍でした。
東北地方の天気予報では雨のち晴だったので、行きは雨の中を進みます。
四駆車のハンドルを握るのは、仕事とボランティアで2度ほど被災地を訪れた方だったので、心強かったです。
他に建設業者(解体)、老人福祉、元JR保線マンといった専門家も同行しました。
東北自動車道を北上します。 路面に起伏があるために80㎞規制がかかっていましたが、実際に揺れたのは白河-郡山間で橋桁のズレによる段差でした。 福島を過ぎると揺れも少なく、高速道の補修も進んでいました。
それにしても高速道路沿いの家々の屋根を見ても、福島以北は地震の影響で瓦屋根が陥没してブルーシートが被されている家を見掛けませんでした。
かえって栃木県の矢板市近辺の方がブルーシートが目立ちます。
麻生政権から始まった高速料金休日千円の制度が終了する1週間前だったからか、交通量も多く、SAも朝から満車でした。
被災地の方に向かう災害派遣の自衛隊車両も見掛けましたが、大震災発生後三ヶ月、復興作業も自衛隊から民間業者へ移行しつつあるので、被災地から引き上げて来る自衛隊車両の方が多かったです。
もっとも警察の部隊はおおむね2週間で派遣部隊が交代するので、高速道路でも警察車両の車列の方が目立ちました。
仙台に近い被災地の石巻、南三陸町方面は仙台の組織が支援可能なので仙台に任せ、仙台から100㎞くらい離れた三陸のほうを目指すことにしました。 一関ICで降りて東の方に向かいます。
国道248号線を海岸に向かって薄衣バイパスで北上川を渡る大鉄橋 北上大橋を渡りました。
気仙沼に行く道で建物の被害はIC近辺のカーディラーのガラスが割れていたり、結婚式場が倒壊していましたが、それ以外はあまり被害は感じませんでした。
これでは東北地方より茨城、栃木、千葉のが地震の被害は大きいのでないか、という会話が交わされました。
気仙沼市内に入り、JR気仙沼駅前に来ましたが客待ちのタクシーが並び、駅も日常の風景を取り戻しつつあります。
ただし、気仙沼に通じる気仙沼線は気仙沼~柳津間は数年単位で運休中、大船渡線も気仙沼~盛間が運休になっており 気仙沼が一ノ関からの大船渡線の暫定的な終着駅になっています。
市役所の前も、雨の土曜日の午前中といった日常の風景のようにみえます。 日常と違っているのは市役所の駐車場に連絡のためか自衛隊の車両が8台ほど駐車していたことです。
しかし市役所の前の道を曲がると、とたんに風景が一変します。
街路灯がへし曲がり、1階と2階が破壊された商店街の店舗が目に飛び込みます。
港から離れた交番の前には、津波で流された漁船が横転しています。
気仙沼港一帯は津波で重油タンクが流され、タンクから洩れた重油に着火し火災が発生したので、焼け焦げた建物や漁船が目に付きます。
港周辺は地盤沈下で陥没し、瓦礫と重油混じりの海水で覆われいます。 最初にやったのは道路の開拓で、自衛隊が行ったのか被災現場への交通路を確保するために、土で道路が盛り上げてありました。
数多くの重機が瓦礫の撤去作業を行っています。 被災後3ヶ月を経過し、撤去作業も自衛隊から民間業者へと移行していました。
瓦礫も、建物、漁船、港湾設備、漁業関係、車両等のスクラップが混合している状況です。 当日は雨が降っていたために埃は舞っていませんでしたが、瓦礫と重油と水産物の腐敗した臭いが漂っています。
復興を妨げるものの一つとして、津波で沈んだり、陸上に打ち上げられた船舶があります。
4月24日から撤去が始まり、まずは港内に沈んだ船のサルベージ、次に陸上に打ち上げられた船の撤去ですが、撤去が完了するのが9月くらいまでかかるので、まだ多数の漁船などが残されています。
漁船が建物に衝突したり、建物に入り込んだりしています。
建物の解体撤去は所有者の承認を受けて国費で行いますが、船舶は所有者が行う必要があります。
JR大船渡線の鹿折唐桑駅前に向かう通りを進むと道を塞ぐように、青い船体の船が擱座しています。
船の向こう側が駅のあった場所になります。
漁船(施網運搬船)の第十八共徳丸です。
船体の大きさゆえに船主が撤去困難としていることもあり、気仙沼市としては、この船をモニュメントにして復興記念公園にする構想があります。
現在は周囲の瓦礫を撤去し、転倒防止の為に支え棒がされています。
この程度の程度の漁船ならば、クレーンで吊り上げ可能なので、つり上げの準備が行われています。
宮城県 気仙沼市を離れて、次は市街地の7割以上が津波の被害を受けた岩手県 陸前高田市に向かいました。